犬と探検する愛媛県新居浜市。東洋のマチュピチュ~旧別子銅山の産業遺跡を登山しながら探してみた




道の駅「マイントピア別子」

マイントピア別子は端出場の採鉱本部跡地をレストランや温泉、レンタルサイクルなどを備えた道の駅です。

隣接する旧端出場水力発電所などの産業遺産が多くあり、別子鉱山鉄道を少し小さくした列車で銅山の様子を再現した観光坑道を見学出来る施設があります。

無料駐車場が400台ほどあり道の駅は無料で利用できますが、各施設利用料が別途必要になるものがあります。


道の駅からでるバスでは東平まで行くことが出来ます。道が狭いので運転に自信のない人はバスの方がいいかも。バスには地元ガイドが同行するので別子銅山の歴史を学ぶことも出来ます。


売店もあります。ここから四国山脈方面にはコンビニなどもないので注意が必要です。


砂金採り体験・鉱山観光・温泉・観光バスなどのチケットが売られています。


人気の道の駅なので季節がよくなると大勢の人が訪れます。


東洋のマチュピチュと言われる東平周辺の産業遺跡

県道47号線から東平の駐車場までは約5kmほどあり、狭い箇所が多い道です。軽自動車でもすれ違うことが出来ない場所も多いので注意が必要です。落石も多く、道の色々な場所に石が落ちていました。


標高750mほどある場所で、大正5年(1916)~昭和5年(1930)まで採鉱本部が置かれていた場所でもあります。


東平貯鉱庫跡・選鉱場跡

明治35年(1902)に第三通洞が貫通し、明治38年(1905)に東平の中央に新選鉱場、東平~黒石駅間に索道が、新選鉱場から大三通洞を経て東延斜坑底に連結する電気鉄道がそれぞれ完成しました。

大正5年(1916)には、採鉱本部が東延から東平に移転して東平が採鉱拠点となります。


別子鉱山鉄道「上部線」は明治26年(1893)に完成し、石ケ山丈(海抜約850m)から角石原(海抜1100m)まで延長5532mもの距離があります。

これは官設鉄道(今のJR)が新居浜市平野部を走る鉄道よりも約30年も前に完成しているのです。


この鉄道が出来るまでは牛車で鉱石を運搬していたので、鉱石の運搬量は飛躍的に増大出来ました。

ですが明治44年(1911)に第三通洞の完成などにより役割を終えました。


上部の一部は壊れていて、花崗岩や赤レンガで造られた構造物を見ることが出来ます。


壁の一部はコンクリートなのでしょうか?


上から見た様子。

昭和43年(1968)の東平抗閉抗により無人の地となった産業遺産ですが、当時のまま残るトンネルや構造物など多くのものがあります。


無料駐車場の横にある東平歴史資料館。

入館無料で、12月~2月は休館。

マイン工房では銅板レリーフの制作体験が出来ます。


内部は当時の生活の様子などを写真、ジオラマ、ショートムービーで学ぶことが出来ます。


かつて多くの人が暮らしていた場所~標高1300mの銅山越まで

東平からも道はつながっているので行けるのですが、今回はこの「旧別子銅山日浦登山口駐車場」から登ることにしました。

休日には駐車場に停められない車が道路横まで溢れている場所です。

トイレがあるので登山準備が出来る場所でもあります。

この場所は標高800mほどなので、冬場は雪に覆われています。


途中に墓がある場所を通り、登り始めて10分ほどで小足谷集落跡と醸造所跡に到着しました。

この辺りは別子銅山でも最も新しく開かれた集落跡で、労働者・職員・商人が3つの集落に分かれて生活していたようです。


何も知らないと城壁跡のようにも見えますが、生活跡が残る場所でもあります。

酒の醸造を始めたのは明治3年(1870)からで最盛期には年間100klも製造していたようです。


小足谷接待館と傭人社宅跡。明治に入って急速に鉱業の近代化が進み、それに伴い各界の要人が頻繁に来山するようになりました。そこで明治34年(1901)に一般人が経営していた泉亭を改装して別子接待館として営業を開始しました。

奥に見える煉瓦壁を廻らせた邸宅の跡は歴代の採鉱課長が住んでいたと言われています。


川底も石を敷いて整備されています。多くの手間と労力がかけられているのがわかります。

街中ではなく本当に山の中なので余計に不思議に思えます。


小学校跡。政府が明治5年(1872)に学制発布をしています。これによって子女の初等教育が義務付けられるようになりました。

明治8年(1875)に目出度町に私立の足谷小学校を創設しています。それから人口の急増もあり明治27年(1894)に私立別子尋常高等小学校となりました。

最盛期の明治32年(1899)には生徒数が298名、教員7名にもなっています。


小学校跡の隣には私立別子測候所跡があり、煙害対策の一環として明治31年(1898)に設立されています。


途中で石垣が崩れている場所もあり、人が住んでいない物悲しさを感じることも・・・。


住友病院跡。ずっと登り坂なのですが、石垣は色々な場所に残っています。


山奥とは思えないほどの施設。大正時代には約5000人が暮らしていた跡がずっと残っています。


車もなく、こんな場所での生活は不便だったと思うのですが・・・。


川を挟んで両隣に石垣がずっと続いています。


登り始めて30分ちょっとでトイレがある場所に到着しました。


トイレの近くにはダイヤモンド水と言われるキレイな水が出ている場所があり、休憩に丁度いい場所となっています。


川沿いの道を更に登って行きます。


登り始めて40分ほどで分岐があるのですが、どちらを通っても銅山越に行くことが出来ます。

行きは真っ直ぐ進むことにしました。右には川を渡る小さな橋と階段があります。


分岐横には人工物の滝があります。


標高1100mを超えたところに大きな石垣群が広がっています。奥定商店跡かと思っていたのですが、大山積神社でした。

明治12年(1879)に重任局として設置され明治25年(1892)の火災で消失するまでは銅山の指令所として重要な位置を占めていたようです。


火災の後に銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が遷座してきました。

隣には別子山村役場があり、村の行政もここで執行されていました。


このような山奥で村の中心地として栄えていた場所です。

左には相撲場があり、5月の山神祭には大いに賑わったそうです。


蘭塔場?とあったので取りあえず行くことにしました。


辺りを一望出来る場所にひっそりとあり、銅山で犠牲となった方を供養した場所のようです。


登り始めて1時間14分ほどで「歓喜坑」に到着。ここは別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道です。

元禄3年(1690)に発見され、元禄4年に幕府の許可を得て採鉱が開始されたのです。

人々がこの山奥にて抱き合って歓喜し、開鉱を祝ったところからこの名となりました。


標高1200m以上もあるこの様な場所で、どうやって鉱脈を見つけるのか・・・。優秀な山師がいたのか、川に銅でも転がっていたのか謎は深まるばかり。


この様な場所でも石畳は続きます。先人達はかなりの苦労をしてきたと思われます。


標高1294mの銅山越に到着。登り始めて1時間25分。

開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)に別子銅山の粗鋼は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運び出せる様になった。


以来、明治19年(1886)に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食料も中持人夫に背負われてこの峠を往来していました。

行き倒れた者もあり、峠の地蔵はその無縁仏を祠ったものです。


第一通洞(赤点線)が明記されている地図。何キロの粗銅を担いで山を越えていたのでしょうか?半端ない重さだったと想像出来ます。


すぐ隣には見晴らしの良い場所があり、もう少し進むと銅山峰ヒュッテに行くことが出来ます。

そこから東平に行くことも可能なので、元気のいい人はこのルートで東平に行くのも楽しいかも。


銅山峰のツガザクラ群落が国の天然記念物に指定されているようです。


まとめ

島根県の世界遺産石見銀山にも劣らない見事な別子銅山なのですが、産業遺跡群を巡るのは楽しい登山となりました。

普通の登山では単調な山道に飽きる事が多いのですが、標高800m付近から標高1300m付近まで様々な生活跡、産業遺跡が残っていて興味をそそられます。


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